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2017年6月 vol.4

 

vol.4 目次

90年代展「終末と反復」出品作家インタビュー

      越前谷嘉高+黒須信雄 +竹内義郎

「試論ー造形芸術のトライアングル」 峯村 敏明

「黒坊主」   村山 友一郎

「なにわ図絵Ⅳ 真田山道行」 きさらぎ 櫂

 

A5版   210×148mm 61頁 

782円(本体700円+送料82円)

発行日 2017年6月19日

編集 万友文庫編集室

製本 mysm社中

発行 +Y Gallery

 

本文より

本文より

越前谷 …純粋に絵画が担うべき役割というのはそう多くはなくて、昔から今でも絵画という表現が根本的に問題にしているのは、人間の視覚とその認識とは何なのか、どういう性質で、どういう限界があるのか、というようなことです。そういう人間の認識のあり方が人間の精神のあり方なんだろうし、世界の認識のあり方であり、世界との関わり方になるんだろうし…、そういうことを絵画的造形として創っていくとしたらどんな風になるのか。今考えているのは大体そんなことです。

 

竹内 何が顕現するのかと言うと、不可視性とでも言うべきものが、不可視なものが可視化されたものとして…、自分にとって不可視なものって何かというと心当たりが見つけられないのですよ…。あくまで不可視なものっていう概念だけが、あたかもあるようで、…それを何かかたちにしていく過程のような気がするんですよね。例えばイコンだとか宗教画とかっていうのだったら不可視なものとしての対象は予め定まっていると思いますが、そうじゃなくてそれでもなお且つ、描かなければいけないとすれば、不可視性という概念としてそれを描いていくということで。

 

黒須 作品のタイトルで古事記などから引用することを始めたきっかけは、前にも書いたことがありますが、“独神(ひとりがみ)”に引っ掛かったからです。独神というのは古事記の一番冒頭に出てくる神ですが、因みに日本書紀には出てきません。現れると同時に消えていく、身を隠したまま顕れるという、出現が即消滅である、という神です。その有り様って一体何なのかと…。

———————90年代展 出品作家インタビュー 越前谷嘉高+黒須信雄 +竹内義郎 

 

 

芸術作品を見るときの私の受容器の中で、判断を左右する一定の基準というか構図が働いているらしいと気づくようになった。美術史や美学に疎い人間のことだから、あくまでも自家製の構図である。自家製といっても、観察という経験の積み重ねの底からおのずと浮かび上がってきた(訪れてきた)構図であり、私が勝手に作り、描いたものとは言いがたい。むしろ、一個人の受容器に映じたからには、元をただせば芸術という現象自体の内に客観的に存在していた構図であるにちがいない。そう確信させるだけの超個人的な真実味を、それは帯びていたのである。

 

 平素私がすぐれた作品から感じるのは、というより感じたいと願っているのは、まず「情調」であり、「イデア性」であり、高いレベルの「遊戯性」である。これらは作品の総体から茫洋と、ときに鋭く感じられるのであって、作品のどの部位から発しているかは意識されていない。けれども、今こうして「トライアングル」の構図を調べ上げた時点で思うのは――といってもすでに予感されていたことではあるが――、「情調」を生んでいるのは三角形の物質の頂点であり、「イデア性」は主題の頂点から、「遊戯性」は手法の頂点から、それぞれの戦いの果てに蒸留精となって放散しているらしいということである。

 ———————「試論 造形芸術のトライアングル」峯村 敏明

 


2016年10月 vol.3

vol.3 目次

80年代展「享楽と根源」出品作家インタビュー

  Ⅰ------ 駒形克哉

  Ⅱ------ 大森博之 + 橋本 倫

「反復」(後編)」 北辻 良央 

「なにわ図絵 Ⅲ — 茶臼山行」 きさらぎ 櫂 

 

A5版   210×148mm 57頁 

782円(本体700円+送料82円)

発行日 2016年10月5日

編集 万友文庫編集室

製本 mysm社中

発行 +Y Gallery

 

本文より

本文より

駒形 …あの…ファブロの教室にいるとみんなアルテポーヴェラみたいなことばかりやっているから、そんなのがちょっと飽きてくるんですよ。で、なんていうか…まあ、人体に対する興味を掘り下げたい気持ちも出てきて、やっていくうちに、アルテポーヴェラの人たちをよく見ると、すごく人体について拘りというのがあって、特にファブロなんかも、ぱっと見たところそんなにもないように思いますが、でも、実際にはすごくそういうのがある。暗示的にやっているなあというのが、気が付いてきた。

 

あそこにある作品(『偽オウィディウス「変身物語」より ミダス王の金貨』)ミダス王の話の、要するに、異本のミダス王の偽書なんですけれど、オウィディウスの『変身物語』のミダス王のところに隙間を見つけて、そこのところに作り物の四行を挟み込んだんですよ。

 

———————80年代展出品作家インタビュー 駒形克哉

 

 

橋本 言葉にするって大切ですよね。つまり、いい作品は、パロールを誘う潜在的な言語性というか、テキスト性を必ず伴っているし、美術の生成現場では、必ず言語的テキストとセットで深く相互干渉する現象が見られます。

 

大森 俺はあまりそういうことを考えていないけど、確かに石膏の状態と、ブロンズの状態になるのとは、ちょっと違う。圧倒的にブロンズは、形が見えてきて強くなってくるんだけど、やっぱり石膏の持っている、いわゆる物質的に強くない。あれが、すごくいい…。

 

橋本 …それくらい美術のロジックってのは、もっと高いレヴェルのものだし、統制的理念に通じるような手に負えない部分を持っている。怪物的なそれを、やっぱり見たいんですね。そういった作品って、実はとてもアクティヴですから、目にすると、つくづく生きててよかったと思わせられますよね。美術というものに対し、ダリもそうですけど、凄まじくナイーブなほどに高い信頼感を持っていますよ。ダリなんか終生ヴェラスケスの前で画学生のように振る舞っていたけれど、あれは本音でしょうね。好きなんですよ、問答無用にいいと思っているんですよ。ラファエロとヴェラスケスを。俺もそう思いますもの。実際に見るとその通りなんだ。だからあの魅力っていうのは、どうにもならない。

 

大森 現実の世界っていうのを、絵面だけで、見ているだけでもないものね。パッと見てそういう、視覚以外のもので感じているから、一瞥で引っかかるわけで、感じているからね。

橋本 ブランクーシは、そこのところを良く解っていた人です。あの人が言った見事な発言には、サルトルが言ったことに近いものが有ります。

 

大森 …作品って画面上でバトル状態、矛盾するかもしれないけれど…作品の中に批評がないと面白くないじゃないですか。なびすの黒須さんにしても、こう煮え切らない面白さがあるんだね。だから、なびすの作家、俺も含めてだけれど。なびすの真倉さんも、もっと前に出てとか言うんだけれども、要するに逡巡の躊躇いの仕方が、やっぱり面白いんだよね。

——————80年代展出品作家インタビュー Ⅱ 大森博之+橋本倫 

 

 


2016年10月 vol.2

 

 

 

 vol.2 目次

「作品の視覚的同一性とその力学について」   黒川 弘毅 

「洗う女考(後編)産婆と奪衣婆」 吉本 直子 

「反復」(前編)」 北辻 良央 

「なにわ図絵 Ⅱ — 毛馬道行」 きさらぎ 櫂

  

A5版   210×148mm 22頁 

582円(本体500円+送料82円)

発行日 2016年9月28日

編集 万友文庫編集室

製本 mysm社中

発行 +Y Gallery

 

本文より

本文より

作品の金属光沢は永続せず、グラインダーで切削している最中からその減退が始まっている。

私は製作直後の輝きを維持しようと思わないが、たいていは少し時間が経過してから表面にワックスを塗布している。

過剰な光の反射のなかでは、私が作業中に感じたかたちの充実が鑑賞者たちに把握され難いだろう。

それでも地上では、生まれたての作品の姿を見ることができた人々は幸せかもしれない。

———————「作品の視覚的同一性とその力学について」黒川弘毅

 

 

戻れぬ時と場所への思慕(すなわちケガレ)を抱える者を白い衣服が包みながら儀礼が進行し、不安定な時期を越え新たな状況が到来したことのしるしとしての色直しが催される。その後には新しい秩序のもとでの平常が続いていく。しかし、ここに一つの疑問が浮かび上がる。儀礼のあいだ白を纏いながらも色直しを経験しない者がいる。それは棺の中にいる死者だ。死者は色直ししないために、ずっとケガレの状態にあるのだろうか? 死者の通過儀礼は完了するのだろう? 

———————「洗う女考:産婆と奪衣婆 」吉本直子

 

大阪港の岸壁のとある広場、空には雲雀がきらきら囀り、浜風が心地よい。ちょっとはまじめに働いて生活の糧を得ようなど全く考えもしない三人の若者が、岸壁沿いのベンチで日向ぼっこをしていた。絵に描いたようなノー天気というかヒッピー風の男たちで、まあ、誰も絵に描こうとは思はないが。真っ青な空と穏やかな海に白い鳥たちが乱れ飛び、時折間延びしたボーーッという音が、港のその一隅だけを気怠くしていた。太陽は上天にあり真ともに彼らの頭に落ち三人は目を半眼にして微睡んでいた。

———————「反復」(前編)北辻良央

  


2016年1月 『mysm+Y』創刊

 

 

vol.1創刊号 目次 

 

「東國のスサノヲ—物質の勝利と非物質の栄光—」橋本   倫 

「資料が語る九州派—福岡市美術館 九州派展を訪れて」岡部 るい  

「極私的村岡三郎論」 北辻 良央 

「二〇〇三年八月の馬」 植木 啓子  

「洗う女考 白」  吉本 直子 

「なにわ図絵—七坂随想」  きさらぎ 櫂 

 

A5版   210×148mm 20頁 

582円(本体500円+送料82円)

発行日 2016年1月15日

編集 mysm編集室

 

本文より

 芸術の存在意義の動揺は、現代に限られた現象ではない。しかし、厖大な情報が電子空間を飛び交い、全てが消化不良のまま猛スピードで断片化されていくこの瞬間にあっては、尚一層重大な意義を持つ。何故ならば、それは人間に於いて固有たるべき時間論の問題―「不死・永遠」論―と関わるからだ。

————————「東国のスサノヲ」橋本倫  

 

 

 週一くらいで学校帰りによく喫茶店に立ち寄ったことがあった。抑圧する権力者に対する憎悪を静かに語られ、大病の後一切の抑圧的思想から自らを開放していこうと決めたと、話されていた。消費税が導入された頃、白い一円玉が軽く扱い難いからか、捨てるというかばら撒いておられた。かつて十円玉を二枚重ねてポケットの中で始終擦り合わせ、いつしか磨り減ってしまった作品が()あった。お金は象徴的なものとしていつも一番身近にあったのだろう。

———————「極私的村岡三郎論」北辻良央 

 

 

 定家と並び称された藤原家隆は、隠岐に流された後鳥羽院を慕い敵対する幕府をかえりみず秀歌を送り続けたという。

  ちぎりあれば 難波の里にやどり来て 波の入り日を おがみつるかも

 定家の華々しい活躍の影になりがちな家隆であるが、それ故に心の機微に寄り添えたのかもしれない。晩年この地に「夕陽庵」を結び日想観を修めたという。

———————「なにわ図絵Ⅰ−七坂随想」きさらぎ櫂